パリ20区歩き ―20区―

20区位置

 
2016年9月から始めたこのシリーズもいよいよ最終回。20区歩きを締めくくるのはやっぱり20区。この区の観光的なみどころはガイドブックにも載っているペール・ラシェーズ墓地だけど、1区に比べるとかなり広大だから、ほかにもいろんなものがあるはず。ここにはどんなパリが待っているのか、最後の散策に出かけよう。

北西にあるベルヴィル駅をスタートし、東へ向かってベルヴィル通りを歩いてみる。前方右側に続くのは、アルファベットではなく見慣れた漢字の看板。パリの中華街といえば13区が有名だしもっと大きいと思うけれど、あちこちにこういう中国人エリアがあって、中国人の存在感の大きさを感じる。
 

20区中華街

 
途中で右に折れ、少し南へ下ったところにあるベルヴィル公園へ。観光客が少ない20区らしく、近所に住んでいると思われる人たちがのんびりしていて、穏やかな雰囲気。
 

 
ベルヴィルというのはフランス語で「美しい街」という意味。この公園は、高台からまさにその美しいパリを見渡せるようになっている。実はこの辺りはパリで一番高い場所らしく、本当に街が一望の下。そういえばフランスに来てまだ3カ月ぐらいのころ、当時通っていたパリカト(パリ・カトリック学院)の生徒に誘われてここに来たことがあった。あのときはまだどこに何区があるかも分かっておらず、自分がどこにいるのかまったく把握できていなかったけれど、この眺めは確かに見覚えがある。あれは冬だったなあ。
 

ベルヴィル公園からの眺め

 
景色を楽しんだら、たくさんの人でにぎわう気持ちのよさそうなオープンカフェや、遊び心のあるパリらしからぬ建物の前を通り過ぎ、上品な細い石畳の道を抜けてさらに南へ進む。
 

 
突然、目の前に現れた背の高い建物はノートルダム・ドゥ・ラ・クロワ教会。映画にもよく出てくるそうだけど、残念ながら記憶にはない。青空に向かってすっと伸びるスマートな佇まいと正面の長い階段が印象的。
 

ノートルダム・ドゥ・ラ・クロワ教会1

 
そして、隣の11区を歩いたときに入り口まで来たメニルモンタン通りに到着。20区に住んでいる日本人はたぶん少ないと思うけれど、この辺りのエリアはパリっ子たちの間では人気だそうで、フランスに来る前に見た映画にもまさに『メニルモンタン』というタイトルのものがあった。これはすごくよかったということは覚えているのだけど、あのころはメニルモンタンがパリの一地区であるとは知らず、もちろんパリの人にとっての位置づけも知らなかったから、本当の意味では理解できていなかった。もう一回見なければ。
 

 
奥へ入っていくほど、典型的なイメージとは違った、生活感漂うパリの姿が見えてくる。このとき初めて、パリに一軒家があるのを発見。アパートしかないと思っていたけれど、あるところにはあるのだ。でも、パリで一軒家に住んでいる人なんて、きっとすごく珍しい。
 

 
もっと南に下りていくと、小さな坂道が。ガニエ・ギという名前のこの通りは、パリで一番、勾配が急なんだそう。といっても大して急ではないのだけど、確かにパリはずっと平坦な道が続いているから、こういう眺めは珍しい。
 

坂道_こちら側

 
坂を上った向こう側の景色。四角い建物が並ぶ通りは確かにパリだ。
 

 
ここからすぐ近くにあるペール・ラシェーズ墓地へ行ってみよう。このちょっとした通りにもファンタジックな雰囲気が感じられ、足取りが軽くなる。
 

墓地への小径

 
パリに大きな墓地はいくつかあって主なところは全部見たけれど、ここが一番いい。写真だとどこも同じように見えるのだけど、このペール・ラシェーズは傾斜があって上り下りするのも楽しいし、整備されすぎておらず、写真や映画で知っている古いパリの味わいがある。墓地といっても、少なくとも昼間はおどろおどろしい感じはぜんぜんなく、その辺でピクニックでもしている人がいそうな明るく静かで心地よい場所。散歩するために墓地を訪れる人もいるそうだから、日本とはだいぶイメージが違う。ちなみに、ここに眠っている最も有名であろうフランス人は、まさにベルヴィルで生まれたというエディット・ピアフ。
 

 
墓地を出たら南東方向へぶらぶら。トラムがあったり、レンガ色の建物があったり、公園沿いの細い道があったりする、いい意味で飾らない街並みを楽しみながら、20区の奥深くへ入っていく。知らない場所を歩くのは興味深いし、こんなパリもあるんだなと、今さらながら不思議な気持ち。そういえば、男の子が風船と一緒にパリの街を歩き回る『赤い風船』という愛らしい映画もこの20区が舞台になっているとのこと。風船の鮮やかな赤との対比が印象的な煤けたような街は、その素朴な雰囲気を今も保っている。
 

 
目的もなく進んでいくと、最後にかわいらしいエリアに出た。青と白の色使いが個人的に好み。明るい建物がつくるこの雰囲気は18区のモンマルトルに似ている。こういう通りに思いがけず出会うからヨーロッパっていいのだ。
 

青と白の通り

 
迷い込みたくなる細い道もあちこちにあって楽しい。でも、どうやら行き止まりになっているようだった。残念。
 

 
観光スポットや観光客が少ない区というのは他にもあるけれど、その中でも20区はなかなか面白いエリアだった。どこに続いているのか分からない秘密めいた道が突然現れ、それらをたどって行くとイメージ通りのパリがあったり、意外なパリにたどり着いたりする。そしてやっぱり、ここで生活する庶民の日常がのぞけるところがいい。フランス人に人気のエリアというだけあって、活気に満ちた明るい雰囲気が感じられる一方で、昔から変わっていないであろう落ち着きや風情もあり、パリ暮らしが満喫できそうな印象。
 

罫線

 
さて、これで20区すべてを歩いたことになる。実際に歩き終わったのは1年半ぐらい前のことなので、書くのが追いついていなかったのだけど、20というのは少ないようでなかなか多い。始めたころは、まさかこんなに長くかかるとは思っていなかった。まず下調べが大変だし、情報を確認しながら記述するのも面倒だし、仕事じゃないのになんでこんなに神経を使っているんだろうと、残りの区を数えながらため息をついたことも何度もあった。

それでも、もちろん歩くこと自体は楽しかった。思っていたよりはるかに区ごとのカラーが違うし、建物も景色も雰囲気も様々で、やっぱり今までは観光地のパリやメディアが発信するパリしか知らなかったことを実感。それに、私自身が強いイメージとして持っていた60年代の映画の中のパリともぜんぜん違った。印象深かった映画を今、見直してみると、画面の中にある街並みはやっぱり別の時代のものだなと感じる。

ただ、街全体の印象という意味では変わらない。だからこそここに住んでいるのが楽しいし、パリのいろいろな表情を知ったことで、それらの映画をまた違った視点で見られる気がする。やっぱりここは、私の好きなものが詰まった街だった。
 

罫線

 
とはいえ、ここに書けたのはそれぞれの区のほんの一部。後から気づいた場所や、まだ回れていないところもたくさんある。これからも発見は続けていくとして、とにかくこの20区歩きを終わらせないことには日本に帰ることも、ブログをやめることもできないから、ずっと気になっていた。結局2年半以上かかってしまったけれど、なんとか無事に終わってひと安心。

 

公園で日光浴する人
いかにもフランスらしいこんな光景にも出会う

 
その他の区はこちら。
1区2区3区4区5区6区7区8区9区10区11区12区13区14区15区16区17区18区19区

新しい景色

前回の更新からすっかり時間が経ってしまった。パリは季節が進み、いったんは25度近くの夏のような日々が続いたものの、5月に入って最高気温10度というあり得ない寒さに逆戻り。幸い、このアパートの中央暖房はまだ稼働していて、うららかな春の光を浴びているはずの小さな部屋をちゃんと暖めてくれているのだけど、いったん油断した体に寒さはこたえる。とはいえ、一気に濃くなった通りの緑には思わず目を奪われてしまった。
 

緑に覆われた通り

 
1月から始まったソルボンヌ・ヌーヴェル(パリ第3)大学語学コースのB2クラス今学期の授業は、なかなかきつかった。特に、3月にあった1週間のバカンスが終わってからの後半は課題も多く、週末のほとんどをつぶさなければいけなかったほど。学校だけ行っているならそれほどの量ではないのだけど、仕事をしているとやっぱり平日だけでは間に合わず、週末にまとめてやることになってしまう。B1だった前期に比べるとレベルも一気に上がり、ハードな日々が続いた。

ここまで走り抜けてきて今、思うこと。

●読む
1年半ぐらい前から続けている単語力の強化がかなり効いてきた。知っている単語が増えたことで明らかに読むスピードが上がり、意味も取れるようになったのを実感。母語と似ている単語が多く、最初からかなりのアドバンテージがあるはずのスペイン語圏、ポルトガル語圏の生徒より高い点数が取れることは自慢していいはず。結局、語学って最後は単語をどれだけ知っているかの問題なのかもしれない。まあ、覚えても覚えても知らない単語がなくならないことには絶望するけれど……。手元にある紙の辞書に載っているだけでも3万4000語、もちろん全部覚えることは不可能だけど、今の時点で知っている単語を多めに5000語と見積もったとしても、2割にも満たない。本当に単語って、終わりがない。

でも、問題なのは、単語や文法が分かっても理解できない文章があること。宿題の中には辞書を使って読んでいいものもあったのだけど、全部調べて細部は分かるのに、全体として何が言いたいのか分からないということがけっこうあった。辞書なしで読めることはもちろん必要だけど、辞書を使っても意味が分からないというのは、より深刻な問題なんじゃないだろうか。ネイティブじゃないと分からない独特の表現であることが原因の場合もあるけれど、一般常識や想像力、行間を読む力が欠けているためである場合もあり、こんな仕事をしているのにそういう部分が問われてしまうと、フランス語の実力不足であること以上に落ち込む。

それに、読めるようになってきたと言ってもそれは“普通の”文章のみ。どの言語でも、文章には文章独特の表現というものが存在し、それが細かいニュアンスにもなり個性にもなる。例えば、新聞記事は事実関係が淡々と書かれているけれど社説はそうじゃないし、雑誌やブログの記事、そして小説なんかになってくるとより文体が凝っていて、どれが主語でどれが述語なのかというところから分からなくなる。だから今の私が読めるのは新聞記事のような文章だけで、修飾が施された技巧的な文章になってくるとほとんど意味が取れないものもある。これはもう、いろんなものを読んで慣れていくしかない。

●書く
これも読むこととつながっていて、今のレベルではより多様で文章らしい表現を要求される。例えば「日本では高齢化が大きな社会問題になっている」というのがスタンダードな文章だとしたら、「日本社会は高齢化問題に直面している」「日本は高齢化社会への対応を迫られている」「社会の高齢化は日本人にとってもはや無視できない問題だ」といったようにいろいろな言い方ができるわけで、そのバリエーションがどれだけ豊富であるかを求められるのだ。添削の際、先生が別の表現を書いて返してくれるのだけど、こういうのは人に教えてもらうものじゃなく、たくさん読んで自分で引き出しを作っていくもの。だから、そういう意味でも読まなければ書けるようにはならない。そう考えると、母語でも読むのが嫌いな人や作文が苦手な人っていうのは表現の引き出しが少ないから、やっぱり外国語でも書くのはあまりできないんだろうなと思う。

余談だけど、ネットにあふれている外国語の勉強法についてのブログなんかを見ていても、その日本語の乱れ具合にはうんざりする。いくら英検1級を取得したと言われても、その日本語(母語)の理解力で本当にちゃんとした英語が身についたの?と疑ってしまい、読む気にならない。外国語を習う前に、まずは母語を正確に書けるように勉強するべき。これは前から不思議に思っているのだけど、母語の文法をきちんと理解していない人でも外国語の構造は分かるものなんだろうか。ただ、この現象自体はきっとどこの国でも同じだから、私は今、ちゃんとしたフランス語が書けないフランス人より書けるんじゃないかな。

●聴く
相変わらず上達した実感はぜんぜんないけれど、ちょっとマシにはなったかもしれない。だんだん単語の切れ目や何の音かが分かるようになってきて、今はどちらかというとスピードに理解が追いつかないなと感じている。前は単語や音自体が判別できないことが多かったから、2回聴いて分からないものは3回聴いても4回聴いても分からなかったのだけど、今は聴けば聴くほど意味が取れるようになった。だから、今度は聴いた瞬間にその場で理解する訓練が必要。

それと、こんなに聴き取りの問題に答えられないのは記憶力が悪いせいじゃないかとも考えていたのだけど、そうじゃない。意味が分かるものはすっと自然に入ってくるから、無理に覚えようとしなくてもちゃんと頭に残っているし、別の言葉で説明できる。そういう部分が少しずつ増えていって、少しずつ聞こえるようになってくる。特効薬はないし、ある日突然聞こえるようになることもない。結局は地道にやっていくしかないんだろうなと思う。まあ特に意識しなくても、フランス語の音は毎日大量に耳に入ってくるから、自然に鍛えられている部分はあるかも。

●話す
一番進歩がないのがこれ。というのも、ソルボンヌ・ヌーヴェルは人数が多いこともあって授業中にほとんどしゃべる機会がないから、ぜんぜん上達しないのだ。やっぱり練習しなければできるようにはならないし、話さない期間が長くなるとどんどん感覚を忘れていくので、さらに話せなくなる。読み書きと同じで、元々しゃべることが好きな人は外国語でもしゃべるし、そうじゃない人にはやっぱり難しい。

それと私の場合、何度も書いているけれど、その場でテーマについての意見を見つけ、まとめるという作業が人に比べて苦手なことも大きい。一般に日本人は、自分の考えを述べながら議論するということが得意ではないと思うけれど、これは仕事をするようになってからも個人的に苦労していた部分なので、フランスに来てまでその弱点について悩むのはなかなかしんどい。普段おとなしくても、当てられたらすごく個性的な意見を言う人ってかっこいいし、実際そういう人がクラスにもいるのだけど、もったいぶっている割に平凡なことしか言えない自分(しかも最年長)は本当に情けないなと感じてしまい、よけいに発言する勇気が出ない。B2クラスになったところでみんなが文法通り正しくしゃべれているわけではないし、むしろそういう人の方が少ないのだけど、そんなことよりも自分なりの意見をしっかりと持っていてはっきり言えることの方がよっぽど大切なんじゃないかと痛感する。これは語学とはまた別の課題。
 

罫線

 
前にも書いたけれど、B2クラスは主にフランス語の資格DELF B2取得を目的としていて、ちょうど1カ月ほど前にそのDELFのテストがあった。私は迷った末、結局受けなかったのだけど、同じクラスからは10人ほどが受験しほとんどが合格したとのこと。そのうち1人は1つ上のレベルDALF C1を取得。でも……。あんなに遠いと思っていたB2、そしてC1までもが、これぐらいで取れてしまうんだなあという感じ。失礼だけど、彼らのうち半分ぐらいはまだまだ自分と比べても基礎ができていないと思うし、実際、今学期は何度もあったテストでも、だいたい私の方が点数がよかった。まあ、受けていないから偉そうなことは言えないとは言え、これなら私もB2はほぼ確実に取れるはずだし、対策すればC1もいけるんじゃないだろうか。ただ、ひと口にB2取得と言っても、合格点ギリギリの人もいればかなり高い点数を取った人もいて、実際のレベルは幅広い。それに、資格は結局、テクニックの問題で、実力とはあまり関係ない。

でも、こうやって苦しみながらも自称C1に近いレベルまで上がり、今また違った景色が見えている。自分の歩いてきた道が客観的に見えるのだ。始めたころはとにかく文法をやることしか見えていなくて、その先に何があるのか考えもしなかったけれど、その文法を理解し、単語をある程度覚え、いろいろな表現が少しずつ分かるようになった今、一人の人間が外国語を身につける過程全体が見えている気がする。ここまで来るのにもいろいろなやり方があり、自分はその中でもこういう方法を選んだんだなということが分かるし、まだあまりできないクラスメートが2年前の自分と同じ場所にいることや、前学期はしんどそうだった生徒が明らかにレベルアップして近づいて来たことも分かる。

そして強く思うのは、ここまで来てやっと本当にフランス語を身につけていく段階に入っていくことができるんだなということ。特に日本人は、文法さえ分かれば外国語はできるとなんとなく考えている人が多いように思うし、実際に私もそうだったけれど、文法が終わったところからがスタート。ここから初めていろいろな文章を読み、いろいろな会話を理解できるようになる。その中で適切な使い方やニュアンスを覚えていき、好きな言葉や言い回しなどが詰まった自分なりの表現の引き出しができていく。今までの勉強はそれを支えるためのまさに基礎の部分で、それが固まったところに新しい扉があり、今その扉を開けて初めてフランス人のいるフランス語の世界に入っていく感覚。そこでの学習に終わりはない。
 

罫線

 
ソルボンヌ・ヌーヴェルの通常の授業はいったん終了したのだけど、短期間の休みを挟んで今度は教育実習生による授業がある。そもそも大学だから、普段から学生たちがしょっちゅう見学に来ていたのだけど、この“補講”にはみんな不満。やっと終わったのに、なんで彼らの練習台になるためにまた行かなければならないのだろうか。フランス語の世界に深く入っていくためには続けることが大事なのだけど、とりあえずしばらく休みたい……。

 

焼けたノートル・ダム
憐れなノートル・ダム大聖堂を見つめる人々

映画の中に生きていた人々

1月26日、ミシェル・ルグランが死んだ。フランス映画好きなら間違いなく知っているこの名前。そう、何度見ても心躍る『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』などの印象的な映画音楽を手掛けた作曲家。
 

ミシェル・ルグラン
ニュース番組に出演していた2年前

 
どちらの作品も機会がある度に見ているし、去年の年末にもちょうどロシュフォールのテレビ放映があったばかり。それに、1カ月ほど前まで19区でやっていたミュージカル映画展にも行ったところだったから、そのタイミングに何とも言えない偶然と驚きを感じる。
 

ルグランとジャック・ドゥミ
2作品の監督ジャック・ドゥミ(左)と

 
とはいえ、ルグランの実際の姿なんてフランスに来るまで一度も見たことがなかったし、そもそもそのいかにもフランス的な響きを持つ名前の主が実在していて、年を重ねながら生活しているなんて、日本にいるときは想像さえしなかった。でも、こちらに来てから動いてしゃべっている本物のミシェル・ルグランをテレビでよく見かけるようになり、こんな人だったんだと興味を覚えると同時に、幻ではなく今もこの世界に生きている人間だということを初めて認識し、だからこそその死にも衝撃を受けた。

特に1960年代のフランス映画って日本でも当時すごく人気だった(らしい)し、個人的にも一番好きなのだけど、リアルタイムで知っているわけではないから、どこまでいっても過去の時代の作品でしかない。監督や作曲家はもちろん、実際に画面に出てくる俳優たちでさえ、私にとっては映画の中だけに生きている人物。現実世界での生死なんて正直、気にしたこともなかった。日本では近年、フランス映画の上映自体が少ないし、あのころ活躍していた人たちの現在の姿を見ることもほとんどないから、彼らは自分がまだこの世にいなかったほんの一時代だけの輝きをまとった人々として、永遠に瑞々しいイメージのまま私の中では存在していたのだ。
 

罫線

 
若く、美しく、スクリーンの中を生き生きと動き回って、またはそんな彼らをフィルムにとらえて私をパリへ連れてきた人たちは、見事に年を取っていた。

この世に二人といない奇跡のような美男子だったアラン・ドロンと、60年代ではないけれど『仕立屋の恋』『髪結いの亭主』が忘れられない監督パトリス・ルコント。

ドロンとルコント

 
完璧な左右対称の顔立ち、何度見てもため息が出るほどの美しさを誇ったカトリーヌ・ドヌーヴと、若いころから演技のセンスが抜を群くジェラール・ドパルデュー。ともに残念な体型になってしまったけれど、まだまだどちらも元気で滑舌もいい。

ドヌーヴとドパルデュー

 
病気で俳優をやめたことなんてぜんぜん知らなかったジャン=ポール・ベルモンド。男も女も惚れる快活な青年のイメージはそのまま。

ベルモンド

 
今でも驚くほど上品さと可憐さを失わないアヌーク・エーメ。

アヌーク・エーメ

 
彼女の若さと美しさを『男と女』で存分に生かしたクロード・ルルーシュ監督は、こちらでは頻繁にテレビに出ている。彼の近所に住んでいるというフランス人が、とても気さくで話しやすい人だと言っていた。

クロード・ルルーシュ

 
その『男と女』や『ロシュフォールの恋人たち』をはじめ、日本ではもはや自国作品でさえ放映しなくなった半世紀も前の映画をフランスのテレビはまだまだゴールデンタイムに流している。やれば見る人はそれなりにいるんだろうし、実際に何度目であっても見始めると途中でやめることができない。まあ、個人的な好みはかなり偏っているけれど。

 
また、俳優や監督、映画に関するドキュメンタリー番組では、シネフィルなら思わずにやりとしてしまう映像もたくさん。

 
やっぱりいいなあ、60年代の作品。何がいいのか自分でも何度も考えているのだけど、その魅力の要因はたぶん“空気”なんだと思う。それは、ファッションや音楽、街並み、登場人物たちの生き方、さらには映像の質などすべて含めて画面からにじみ出ているようなもの。フランスに限らず、どこの国の映画を見てもこのころの作品は同じようなにおいがして、つい見入ってしまう。理屈ではなく、自分でも気づかないまま引きつけられ、心を盗まれるのだ。
 

罫線

 
スクリーンの中で弾けるような若さを謳歌していた幻の人たちをもう少し。昔は大きな目が印象的でミステリアスな雰囲気をまとっていたジェーン・バーキン。

ジェーン・バーキン

 
2017年、ジャンヌ・モローが亡くなった数日後に彼女との思い出を語るファニー・アルダンは、さすがに老けたけれど見た目のイメージはあまり変わらないのが見事。

ファニー・アルダンとジャンヌ・モロー

 
日本ではもうほとんどその動向を知ることができないかつてのスターたちは、こちらでは普通にニュース番組なんかに出ていて、政治について自分の意見を述べたりしている。この人たちに比べればまだまだ若いと言えるイザベル・ユペールやジュリエット・ビノシュを含め、ほとんどが今も現役で活躍しているようだけど、みんな私のイメージの中にあった姿とはあまりにも違い、同じ人たちだとは信じられないほど。

 
もうかなり前に亡くなってしまったジャン・ギャバンやリノ・ヴァンチュラも晩年の姿は知らなかった。

 
フランスに来てこんなにも映画の中の人たちの“真の姿”を目にするとは予想外。彼らがこの世に存在する生身の人間だというのは未だに不思議な気もするけれど、これからどんどん続いていくであろうその死に接する度にきっとここで見た年老いた姿を思い出し、悲しい気持ちになるんだろうな……。それにしても、パリの中心で生活しているというのに、目の前ではまったく誰も見かけないというのもまた残念。

 

ドヌーヴ×シェルブール
ルグランといえばやっぱりこれ

 
※画像はfrance2、france3、arteの番組より。放映日は2016年9月以降。