フランス人の不思議な行動

帰国して約2カ月半、日常の身近なところで日本の清潔さや便利さ、おもてなしの精神を再認識すると同時に、フランスとの文化や価値観の違いを日々実感している。元々、遠い国に行って知らない世界を発見することが好きだから、それなりに多様な文化も体験しているのだけど、先進国であっても、そしてどれだけ心惹かれる国であっても、やっぱり理解できないことはある。在仏中から日本人としては不思議に思っていたフランス人の行動を挙げてみよう。

 

■雨でも傘をささない

 
傘をささない

 
これは有名な話かもしれないけれど、本当にささない。天気予報から明らかに一日雨と分かっていて、しかもけっこう降っている日でも持っていない人が大多数。周りに聞いたところでは、単に傘を持ち歩くのが面倒だからという理由が多かったのだけど、個人的には面倒でも濡れない方を選ぶ。特に日本にいる時は、それなりにいい素材の靴を履きカバンを持って出かけるから絶対に濡らしたくなく、ほんの少しの雨でもすぐに傘を使うし、なければ買う。おかげで、家にはコンビニのビニール傘がたくさんあるのだけど、フランスではそもそも傘を売っているのさえあまり見かけない。パリでは秋から冬が終わるまで毎日どんよりした天気なので、現地のMUJI(無印)で買った折りたたみ傘を常にバッグに入れて持ち歩いていた。
 

傘をささない2

 
フランスは日本と違い、土足のまま家の中に入るから、傘をささなければ服だけでなく家も汚れることになると思うのだけど、そういう意識はないのだろうか……。

 

■赤信号でも気にしない

 
横断歩道

 
歩行者だけでなく、車も同じ。さすがに大きな道路ではおとなしく停車しているものの、小さな道だと赤信号でもお構いなく突っ込んでくる。その代わりというか、ドライバーは歩行者にはやさしくて必ず優先してはくれるのだけど、危ないのでぜひやめてほしい。

 

■電車の中で食事する

 
メトロ

 
最近はあまり見なくなったものの、たまにいる。それも、サンドイッチぐらいならまだいいのだけど、中にはにおいの強いものを持ち込む人もいて、一度、焼きトウモロコシを食べている人に当たった時は車両中が香ばしすぎる香りで満たされていた。パリのメトロは日本の電車より狭いし、まさか食べるなとも言えないのだけど、周りの人は特に気にしていないよう。

 

■寒くてもテラス席

 
カフェ3

 
太陽の下、食事やお茶を楽しむ人で賑わうオープンテラスは典型的なパリの景色。夏の間は、テラス席はいっぱいなのに店の中にはお客がゼロということも珍しくない。それぐらいテラス席が大好きなフランス人、灰色の空に覆われた冬でもやっぱり外がいいようで、寒い中、コートを着たままテラス席に落ち着き、コーヒー片手に思い思いの時間を過ごす人がたくさんいる。パリでは、どんなに小さなレストランやカフェでも、たとえ1席でも、必ずテラス席があるぐらいオープンテラスが根付いている。
 

シャロンヌ通り11

 
寒がりとしてはなぜわざわざ外を選ぶのか理解し難いのだけど、一度、冬に大きなカフェのテラス席を通り抜けた時、暖かい空気が流れていて驚いた。見上げると、テラス席を覆う屋根全体にヒーターが取り付けてある。なるほど、こういう仕組みになっているのかと納得したものの、これは環境によくないということで禁止される方向らしいから、冬のパリでテラス席の賑わいを見かけることは少なくなっていくのかもしれない。

 

■公園で水着になる

 
水着1

 
これもフランス人らしさ全開の、日本人には真似できない文化。ちょっと暑くなると、すぐに脱いで日焼けしたがる。しみ・くすみを嫌い、日差しを避ける日本人とは大違いなのだけど、住んでみてまあその気持ちも分からないでもないなと思った。何しろ、秋冬のパリは本当に毎日どんよりとした雲に覆われていて、日本のように寒くても空は真っ青という日がほとんどない。これだけ長い期間、太陽を見られないとなると、可能な時に少しでもその光を浴びたいと願うのは当然なのかも。
 

水着2

 
でも、あるフランス人によると、ビーチ以外で水着になるのは本来、禁止されているとのこと。

 

■女性の露出度が高い

 
軽装のパリジェンヌ1

 
まあこれも太陽を求める気持ちと根は同じなのかもしれないけれど、日本人の感覚からすると“はしたない”ほどの大胆さ。街を歩いている女性はもちろん、真面目にニュースや天気予報を伝えているテレビのキャスターでさえ、その胸元に思わず目が行ってしまうぐらいのはだけ・・・具合。
 

France2BFM TVのニュース映像より

 
肩から下着のひもが覗いているなんていうのは当たり前、キャミソール1枚だったり、背中が大きく開いていたり、ショートパンツやミニスカートで脚を出したりするのも普通。ただ、このブログでも何度か書いてきたけれど、こういう感覚については個人的に肯定的で、年齢や人の目なんて気にせず着たいものを着ればいいし、暑い時には涼しい格好をすればいいと思う。もちろん、社会常識の範囲内でということだけど。私もパリにいる時は透ける素材のブラウスをインナーなしで着ていて、なんだか解放された気分だった。

 

■外国人に道を聞く

 
線路沿い

 
自分の国にいるのに外国人に話しかけられたら逃げるという日本人からすればあり得ない発想だけど、見るからにアジア人の私にも、フランス人は普通に駅までの道を尋ねたり、映画館の前で何の映画を待っているのか聞いてきたりする(もちろんフランス語で)。実際、パリにいる間にこういうことは本当に何度もあって、なんでわざわざ私に聞くの!?と、とても不思議だった。そして、もっと謎なのは、こちらが聞き返してもゆっくりしゃべってくれないこと。速すぎて聞き取れないからもう一度言ってほしいと求めているんだし、それは相手も素振りで分かるはずなのに、同じ速さで繰り返すだけ。日本人ならこういう時、無意識にスピードを落とし、簡単な単語を選ぶように思うのだけど。

でも、これはパリに限らず、たぶんロンドンとかニューヨークとか移民が多く住んでいる都市ならどこも同じで、要するに外国人がいることが当たり前なのだ。だから、そもそも外国人という区別さえしないのだろうし、相手が言葉を話せないかもとは考えないんだろう。日本にも外国人が増えてきたとはいえ、こういう感覚が一般的になる日はまだ遠いような気がする。日本語を話せる外国人が日本語で話しかけているのに、相手の日本人が下手な英語で一生懸命返してきて苦笑したなんて話もけっこう聞くし。
 

罫線

 
他にもいろいろあるけれど最近だと、ウイルス感染が爆発的に広がっているのにマスクをしないだとか、外出制限をきちんと守らないだとか、挙句の果てには行動や営業の自由を求めるデモをやってしまうというような例も、日本とは異なるフランスの国民性をよく表していると思う。

日本から出てみると、当然ながら日本人とは違う考え方や価値観を持つ人たちがいて、個人的にはその違いを知り、体験することが面白いし、旅行であれ留学であれ仕事であれ、それこそが海外に出る醍醐味だと思う。もちろん、日本の方が優れているという視点で異文化を眺めるのではなく、あくまでも客観的に。そうすると、見習うべき点も、逆に見習ってほしい点も見えてくる。例えば、日本人の真面目さや几帳面さは世界に誇るべきものだけど、他人の目を気にし過ぎるところや従順過ぎる点、異質なものを排除しようとする傾向には個人的に疑問や苛立ちを感じる。反対に、自分の権利は自分で守るというフランス人の反抗精神や行動力には憧れるものの、行き過ぎた個人主義はどうかと思うし、他民族の信仰を愚弄するのも表現の自由の一つという考え方にはちょっと賛同できない。

ただ、「フランス人」「日本人」と一括りにしてしまうのも問題。フランス人が全員、ここに書いたことに当てはまるかと言えば、当然そんなことはないし。日本人もフランス人もそれぞれみんな違って、どんな人にもいいところがあれば悪いところもある。それは民族や人種や文化にも言えることで、絶対的に優れた存在なんてなく、自分たちとは異なるものの見方や考え方をする人がちょっと奇妙に思えるだけのこと。フランス人をはじめ日本の文化を好きだという外国人は多いし、私自身も日本や日本人の好きなところはたくさんあるけれど、別に日本のすべてが素晴らしいとは思っていないし、選ばれて“優秀な”日本人に生まれてきたわけでもない。

世の中には様々な国があり、様々な文化や価値観があって、優劣をつけられるものじゃない。そんな当たり前のことが多くの場所でだんだんと通じない世界になってきたのは、残念だし悔しいし歯痒くもある。とはいえ、スーパーで買い物してレジで商品を素早くきれいにカゴに詰めてもらう度に、フランス人も少しはこの日本人のサービス精神を見習ってほしいと思ってしまうのは避けられないのだけど。
 

罫線2

 
ついでに、「行動」ではないものの、不思議に思っていたフランス人に関する「現象」について。フランス人というと、女性なら「マリー」「ソフィー」「カトリーヌ」「ナタリー」、男性なら「ポール」「フィリップ」「ミシェル」「ピエール」など、同じ名前が異様に多いなとだいぶ前から思っていた。実は、割と最近の1993年まで子供につけられる名前が決められていて、その中から選択しなければいけなかったのだそう。この事実を知った時、なるほどそんな理由があったのかと深く納得。そんな状況だったから、同じ名前の人物を区別するため、フランス人は日本で言う下の名前を3つまで持てるとのこと。現在は基本的に好きなように命名できるようだけど、日本のようにキラキラネームも増えているという記事を少し前に読んだ。世代の違いなんかもあるのかもしれないけれど、自分たちのエゴで奇妙な名前を子供に与える親は、その人種や国籍にかかわらず“異文化”を持つ人たちに見えてしまうなあ。

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