英語の必要性

前回、前々回とたまたま英語に関する話につながってしまったので、前からずーっと感じていることを書いてみようと思う。

今はここフランスに住んでいるわけなのだけど、フランス人といえばフランス語に誇りを持っていて英語を話してくれない、というイメージを持っている人も未だにいるかも。でも、それはもはや昔の話で、今の若いフランス人はけっこう英語が上手。街なかで外国人観光客に英語で何か尋ねられて英語で返しているフランス人の姿もよく見かけるし、英語ができない人の割合が日本と同じぐらい高いというフランスの状況も変わりつつあることを感じる。語学学校の先生たちもたいていみんなペラペラで、前に通っていたパリカト(パリ・カトリック学院)では、英語を話せることが教師として採用されるために必須だったんじゃないかと思う。確かに、まったくフランス語ができない状態で来た生徒たちにとっては、英語が大きな助けになるだろうし。

 アルファベット

 
典型的日本人である私は、もちろん英語なんて話せない。とはいえ最低限の会話はできるし、これだけフランス語にどっぷり浸かっていてもまだ英語のレベルの方が高いと思う。義務教育と大学受験の効果というのはなかなか侮れない。あのころ授業で毎日英語に触れていたことを考えると、まだまだフランス語に接している時間は少ないのだ。でも実際に英語を使えるようになったのは、何度も海外に一人でふらふら出かけているうちによく使うフレーズを覚えてしまったことが大きく、あらゆる場面でどうしても英語を話さなければいけない必要に迫られたことで、英語で考えて口に出すことがスムーズになった。そうでなければ、知識だけはやたら豊富だけど簡単な会話もできないという状態にとどまっていたと思う。だからやっぱり、言葉を習うときには使う練習が欠かせない。

でも、実は英語は嫌い。元々は好きで勉強も苦じゃなかったのだけど、旅行で英語を覚えていくのと同時に、“しゃべれて当たり前”という世界の中での英語の位置付け、そして英語を話す人たちの認識が分かってきて、だんだん嫌悪感を持つようになってしまった。特に英語圏の人たちは、外国人がみんな英語を話してくれるという状況に甘えて、他の国の言葉をぜんぜん学ぼうとしないように見えるから、ますます英語を勉強するのが悔しい。もちろん、語学学校にはフランス語を学んでいるアメリカ人やイギリス人もいるし、すべての人に当てはまるわけはないのだけど、一度持ってしまったその印象はなかなか消すことができない。

それに、英語って単純なのだ。きっと日本語と比べてもそうだろうけど、よく似ているフランス語と比較してみても英語の構造はかなりシンプル。しゃべれないから偉そうなことは言えないとはいえ、英語はやっぱり世界に数ある言語の中でも習得しやすいものなんだと思う。日本人で英語を身につけた人でも、フランス語は難しくて英語のようにはいかないと言っているし、どうせなら複雑なフランス語の方をマスターしたい。

英語が嫌いになった理由には、音の問題もある。これも一般化してはいけないことは承知の上で、イギリス人のカクカクした英語は聞き取りやすいけどあまり好きじゃないし、アメリカ人の流れるようなだらだらした話し方はもっとイヤ。パリでも通りや電車で英語が耳に入ってくることは多いけれど、あのやる気のなさそうな音の連なりが聞こえてくると、舌打ちしたくなるほどイラッとしてしまう。フランス語をここまで勉強してきて思うのは、発音自体は難しいけれど、慣れてしまえば聞き取りはもしかしたら英語より楽かもしれないということ。単語と単語をつなげて読むというルールに惑わされはするものの、一部のアメリカ人が話す英語のように単語の“形”自体がくずれることはない。ただ、ドイツ人が話す英語の音は本当にきれいだし、ああいう英語なら話してみたいなという気になる。

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語学学校の生徒たちも、国籍にかかわらず英語ができる人が多い。先進国出身でしゃべれないのは本当に日本人ぐらいで、それもまったくできないという人がほとんど。彼らに比べれば私のレベルでもだいぶ上の方なのだけど、それでも“旅の英会話”の範囲を超えた話になるとぜんぜんついていけないし、嫌いと言いながら実は英語ができないことにはかなりのコンプレックスを持っている。実際に今までの旅行でも、英語が話せないことで何度も肩身の狭い思いをしたので、それがトラウマになっている部分もあるかもしれない。だから今の学校のように欧米人ばかりだと、真っ先に英語での会話になることが頭に浮かんで気後れしてしまう。

パリカトに通っていたときも、共通語は暗黙の了解で英語だったし、こちらがしゃべれるかどうか確かめもせずにいきなり英語で話しだす人も多かった。まあ今ぐらいのフランス語のレベルなら英語になってもついていけるのだけど、一度グループワークで誰かが英語を使い始めたとき、ベトナムの女の子が「英語分からないからやめて」とはっきり言ったのには心の中で拍手喝采。それでいいのだ。確かに今の時代、英語ができないことは胸を張れることじゃないかもしれないけれど、全員がしゃべれる必要もない。だって、フランス語を学びに来ているのだから、そもそも英語を使う方が間違っている。

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日本では英語教育の開始年齢が低くなってきて、これに関してはいろいろ意見があると思うけれど、個人的には賛成。前は、日本語もあやふやな段階で英語をやってもどうかなと感じていたのだけど、自分が英語やフランス語を勉強してきて、特にフランスへ来て、やっぱり早い方がいいと思うようになった。というのは、英語ができてもできなくても、物事をしっかり考える人は考えるし、考えない人は考えない。結局は言葉の問題じゃないのだ。中身のないことしか言えないのであっても、英語を話すことができれば可能性が広がるので、まだ自然に覚えられる年齢で身につけておいた方が得なんじゃないだろうか。アイデンティティーの問題を指摘する人もいるけれど、日本にいるのだから、英語を学んだところでやっぱり日本人として育つと思うし。まあこの辺は知識がない上に自分に子供もいないので、あまり軽々しくは言えないけれど。

フランスでこんなことを考えるのもなんだけど、それでもやっぱりどこかで英語はきちんとやらなければいけないなと思っている。ただ、フランス語に対するのと同じような情熱はないので、いつ始める気になるかは自分でも疑問。好きだからじゃなく、必要だからやるのだ。それにしても、英会話を習い始める理由として定番の“外国人に道を聞かれたときに困るから”というのはどうかと思う。それぐらいなら答えられるというのもあるけれど、そもそも自分の国にいるのに外国語がしゃべれないから委縮するなんて、日本人て何て奥ゆかしいんだろう。個人的には、英語で聞かれたら堂々と日本語で返してやればいいと思っている。外国ではさらっと英語でスマートに、というのを理想に掲げつつ・・・。

面白いのは、語学学校にいる英語圏の生徒たちが、自分はフランス語を使いたいのに知り合いのフランス人がみんな英語でしゃべるので不満だと話していること。先生たちもそれを聞いて、フランス人も英語を練習したいんだろうねと言っている。ここまで英語がフランスに侵入しているとはちょっと意外。ちなみに、フランス語にも日本語と同じように、英単語を自国の言葉としてそのまま使っているものがたくさんある(まあそれでも、日本語化している英語の方が断然多いと思うけれど)。そもそも似たような言葉がたくさんあるのに加えて、自分たちが普段使っている単語を共有しているなんて、やっぱり英語圏の人たちはフランス語を学ぶ上で圧倒的に有利だ。でも、だからこそやつらには絶対に負けたくない。少なくともフランスにいる語学留学生にとっては、英語よりもフランス語ができることの方が価値が高いはずなのだから。

 

フリーペーパー
よく見るとフリーペーパーにも英語がちらほら

パリの映画館めぐり⑦

昔ながらの小さな名画座があちこちにひっそりと立ち、今では個人的にもすっかりなじみのあるエリアになった5区のカルチエ・ラタン。モダンなデザインが印象的な「グラン・アクション」は、そんな5区の中でもミニシアターが密集する場所からは少し外れた学校通り(Rue des Écoles)の東端に佇んでいる。

 外観

 
すぐ近くにある映画館めぐり③の「ル・デスペラード」(現在は「エコール21」に改称)、の「クリスティーナ21」と姉妹館のようで、3館共通で使えるポイントカードもある。私は去年、複数の映画館で使えるカードを作ったから途中でこれは使わなくなったのだけど、2カ月間で5本見ると1回無料になるらしく、そこそこ映画を見に行くという人ならなかなかお得に使えるんじゃないかと思う。
 

 
上映室は2つで、特に奥の方はかなり広く初めて入ったときは驚いた。上映プログラムは旧作中心なのだけど、1930年代あたりから割と最近の2000年代の作品まで幅広くかかっていて、ときには新作もやっている。秋にはソフィア・コッポラの『ザ・ビガイルド』をここで見たし、それに合わせて彼女の作品の特集上映もやっていた。姉妹館同士でもそれぞれ個性があり、かかっている作品がぜんぜん違うのがいい。そしてこの映画館の特徴は何といっても鮮やかな内装。壁いっぱいに数々の名作の一場面が描かれていて、眺めながら何の映画だったか思わず考えてしまう。赤、青、黄の原色使いはまるでゴダールの世界。
 

 
ちょうど1年ほど前、日本でも何度も見た『サウンド・オブ・ミュージック』をここでもまた鑑賞したのだけど、まだ“英語の映画をフランス語字幕で見る”ことに慣れていない時期で、ドレミの歌の字幕が新鮮だったのを覚えている。「ド」はドーナツのドじゃなく、英語の訳そのままでもなく、ちゃんとフランス語の単語に合うように歌詞が付けられていて、考えてみれば当たり前なのだけど、それぞれの国によってそれぞれの歌詞があるなんてすごいことだ。よく、ダジャレを訳すのが難しいという話は聞くのだけど、英語の映画や日本語の映画をフランス語字幕で見るということがこちらで普通になって、言葉の不思議さをますます強く感じるようになった。

 ドレミの歌の歌詞

 
例えば、日本と同じようにこちらでもテレビでアメリカのドラマなんかを吹き替えでやっているのだけど、日本で見るのと同様にセリフが口の動きにぴったり合っていて、これにも感心。登場人物たちは英語でしゃべっているのに、同時に日本語でもフランス語でも同じような口の動きで同じことが言えるということになる。セリフを字幕にするのと吹き替えにするのとでは考え方が違うから同じ内容にはならないみたいだけど、それぞれスペシャリストがいて、日本語で見ても違和感がないのと同様にフランスでも素晴らしい仕事をする人たちがいるんだなと考えると、なんだか感動してしまう。これぞプロフェッショナル。

ただ映画のタイトルに関しては、フランス語だと日本人にとってはすごく分かりづらい。『サウンド・オブ・ミュージック』は日本語も原語タイトルと同じだけど、フランス語のタイトルは『La Mélodie du Bonheur』、直訳すると“幸せのメロディ”。誰もが知っているオードリー・ヘプバーンの『ティファニーで朝食を』も、日本語タイトルは原語のほぼ直訳だけどいい感じなのに、フランス語では『Diamants sur canapé』= “ソファの上のダイヤモンド”っていう、なかなか独創的なもの。こんなに有名な作品なのに学校の先生もフランス語タイトルを知らなかった。

 サウンド・オブ・ミュージックチラシ

画像引用元:https://www.surnetflix.fr/la-melodie-du-bonheur/21921

面白かったのはヒッチコックの『サイコ』。これをあらためて見に行ったのはまだフランスに来てそれほど経っていないころだったのだけど、フランス語でも『psychose』と書くから英語と同じだと思い、チケット売り場で「サイコ」と発音したら「プシコーズ?」と聞き返された。実は「psyー 」と始まる単語は精神分析治療が一般的なフランスではよく出てくる単語で、今ではこの独特の発音がすっかり頭にこびりついてしまっているのだけど、これを映画館で初めて聞いたときの衝撃は忘れられない。

日本ではかつて『第三の男』とか『俺たちに明日はない』とか、たとえ原語タイトルをそのまま訳しただけだとしても、一度聞いたら忘れられないカッコイイ邦題がたくさんあったけれど、最近は英語をそのままカタカナにしただけのタイトルが多くなっているのが何とも残念。ただそれと同じように、フランスでもアメリカ映画が英語タイトルのまま公開されているのをよく見る。こういう時代に、自国の言葉で独自のタイトルを付けることは大いに希望するところではあるのだけど、パリで上映作品を調べるときに限っては、英語タイトルはむしろそのままにしておいてくれた方がありがたいかも・・・。

 

トイレ
トイレのドアにはあの2人が

 

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思いわずらう日々

11月に入ってから急速に気温が下がり、日中でも10度前後が普通になった。暖房を使い始め、大阪なら年末ごろに出す分厚めのコートをすでに着ている。サマータイムが終わって夜が始まるのも早くなったし、これからどんどん寒くなっていくと思うと憂鬱だけど、パリにいる以上、この寂しい季節に慣れなければ。
 

天気予報
今日の最高気温予想

 
さて、少人数制の語学学校に通い始めて早くも2カ月近く。いろいろ迷いながらも、授業にはきちんと出席している。週単位だから毎週メンバーが変わるし、1クラスが最大7人までと決まっているので、人数調整のために勝手にクラスを移動させられる生徒もいる。クラスが変わるということはつまりレベルが変わることだから、こちらから頼んでもいないのに学校の都合で動かされるのはさすがにどうなんだろうという気がしないでもない。私の場合は最初の1週間がB1、そして1つ下のA2+のクラスに3週間ぐらいいたあと、ある日突然クラスごとB1に変わった。ただ、1週目にいたクラスはこれより上だから、実際にはB2ぐらいだったのかも。まあこの辺はその週の生徒のレベルにもよるので、かなり曖昧。人数が少ないのはいいのだけど、数合わせのために毎週バタバタしている印象はある。個人的には、常にメンバーが変わった方が気分も変わるしそのことで不満はないけれど、システムとしてはちょっと無理があると思う。

とはいえ授業はきちんとしていて、特に今の先生はすごくいい。私より少し若いけれど経験豊富で、韓国で教えたこともあるそう。彼女自身いろいろな国の言葉を学んでいるから、生徒たちに必要なものや足りないことをとてもよく分かっていて、効果的な授業をしてくれる。短いプレゼン、漫画を見てストーリーを作る、テーマに沿った意見交換、または全員での議論など、パリカトで今年の春学期に習っていた先生の授業とすごく似ている。この先生は最高だったから、同じような感覚を持った先生とここで出会えたのは本当にラッキーだ。すでにこの学校で3人目の先生なのだけど、間違いなくこの人が一番。

素晴らしいのは、生徒たちが話すのを聞きながら間違っている箇所をすべて指摘してくれること。これって当たり前のように思うけれど、実は少人数であっても全員について細かいところまで直してくれる先生はなかなかいない。会話重視の学校のはずなのに、これには大いに不満を感じている。レベルによっては、文法よりもまずは発言することが大事な場合もあるし、細かい部分より大意が伝わることを重視する考えがあるのも分かるのだけど、この先生は洗練された話し方ができなければいけないという哲学を持っていて、それを目指した授業をしてくれる。生徒の側としても、こうやって小さなところまでいちいち全部指摘してくれるのは、まさに理想的。直してくれなければ、いつまでも間違ったまましゃべり続けてしまうことになるし、実際にこの先生も語学留学していたとき、ある人が指摘してくれるまで誤った表現を1年間使い続けていたと言っていた。そんな経験があるからこそ、こちらの気持ちをよく理解しているのだ。

それにしても驚いたのは、私よりはるかにペラペラしゃべっている他の生徒たちが、先生によるとまあみんな見事に間違いだらけだということ。文法を知らないわけだから、その辺は適当なんだろうなと思ってはいたものの、予想をはるかに超えるレベル。私も含め他の生徒たちは聞いても気づかないけれど、フランス人にしてみたらまったく文章の形になっていないらしい。間違いを恐れずにしゃべれるというのはうらやましい一方で、ここまでくるとやっぱり文法をきちんとやらなければいけないなと思ってしまう。

この先生は発音のスペシャリストでもあるそうで、授業中に発音の練習もよくやる。発音なんて悪くても、言いたいことが伝わればいいという人もいるけれど、フランス語の場合、数種類の「エ」や「オ」があるし、本来の発音とは異なる発音をしてしまうことでまったく別の意味になってしまったりするから、ものすごく微妙だし常に気を使わなければいけない。以前から、フランス人以外のフランス語は聞き取れないということをずっと思っていてこのブログでも何度か書いているけれど、いまだにそれは続いている。つい最近、南米出身の生徒のプレゼンがあったのだけど、この人はまったくフランス語の発音じゃなく、3分間ほどの内容がほとんど理解できなかった。日本の生徒は同じように、フランス人以外のフランス語は聞き取れないと言うのだけど、なぜか他の国の生徒はみんな分かっているようで、これも解けない謎の一つ。

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実は、私はこのクラスにしてはちょっとレベルが高いようで、この先生になってすぐに上のクラスへ移動するよう勧められた。確かに、他の生徒と比べるとかなり基礎が身についているなと感じるし、おそらく語彙もだいぶ多い。上のクラスとはつまり、1週目にいたクラスなのだけど、ものすごく悩んで結局変更せず、でも今も悩み続けている。

この学校に来た目的は会話のレベルを作文のレベルまで上げることだから、いったん読み書きや文法の勉強は休んでもいいかなと思っていたのだけど、さすがに授業の内容がほぼ理解できていることばかりなので、時間がもったいないし不安になる。だって、自分が一番よくできる状態なんておかしいのだ。先生も「あなたはフランス語の構造をとてもよく理解しているし、動詞の活用もほぼ完璧。発音もまるでフランス人みたい」と毎日のように褒めてくれるのだけど、うれしい反面、上のクラスにいくよう勧められながらここにとどまっていることを知っている生徒もいるから、それをよく思わない人もいるかもしれないし、自分にとって簡単なのは当たり前なのに答えすぎるのも悪いかなと変な気も使ってしまう。まったく、上のクラスにいけば周りのレベルにひるんでしまい、下のクラスでは空気を読んでしまうって、本当に典型的な日本人だ。

なぜ上のクラスにいくのをためらっているかというと、一番の理由は先生。1週目にこのクラスの授業を受けて先生にいい印象を持てなかったので、2週目からレベルは下がったものの、正直この先生じゃなくなってほっとしたのだ。授業自体はしっかりしているし、たぶん頭もいいんだろうけど、相性が合わないというか、人としてあまり好きじゃないタイプ。そしておそらく、向こうも同じように感じているんだろうなということが分かる。小さな学校だから先生があまりいなくて、ずっとこの人が同じクラスを担当しているというのがやっかい。

2週目からレベルが下がったのは人数調整のためなのかずっと疑問に思っていたのだけど、実際にはこの先生が判断したのだと最近になって分かった。授業の内容自体は別に難しくなかったのだけど、確かにぜんぜんしゃべれなかったから仕方ないとはいえ、一言の説明もないのはどうかなと思うし、もしかしたら私を避けるためにクラスを変更させたのかもしれないと勘ぐってしまうぐらい、この人との相性の悪さを感じている。でも、だからといっていつまでも今のクラスにとどまっていることが有効なのかどうかは迷うところ。いい先生に当たっているから、わざわざ変える必要もないのだけど・・・。結局、フランス語を使って何がしたいのかという最終目標が明確じゃないから、答えが出ないままずっとこの辺りのレベルでうろうろしているような気がする。

正直、レベルよりも人数の方が重要なのだ。前の2人目の先生のときに一度、本来3人の授業のはずが他の2人が同時に休んだため私1人だったことがあり、1時間半先生を独占して会話し続けるというチャンスに恵まれた。小さな学校ならではのメリットだけど、かと思えばイレギュラーで8人いる週なんかはほとんど順番が回ってこないし、それならこの時間に新聞記事でも読んでいた方がよかったなという気になってしまう。文法の練習問題はもうやっても意味がないから、とにかく口頭で“使う”練習をしたいのだ。会話は学校で習うものじゃないって言う人もいるけれど、私にしてみれば会話こそ学校でやるものであって、それ以外はいくらでも一人でできると思う。だって、しゃべれないのに現地の友だちなんて普通はできないのだから。

ただ、この学校は会話を重視している一方で、読み書きに関してはあまり伸びないんじゃないかなという気がする。前に通っていたパリカト(パリ・カトリック学院)と違い、大学に入ることを目指しているような人はあまりいないから必要ないのかもしれないけれど、どうしても一方を取れば一方がおろそかになってしまうことは避けられない。作文や発音などの専門授業もあるものの、これは別料金。今の先生は宿題をけっこう出すし、中には作文もあるので、パリカトで習った難しい単語や表現を使うようにしているのだけど、ここにしか通ったことがない人はそもそも書くこと自体が大変だと思うし、もちろんパリカトのような映画の授業なんてない。そういう意味では、やっぱりパリカトはカリキュラムが豊富だし、フランス語を使って世界を広げることを可能にしてくれる。ただ内容が難しすぎるから、趣味でフランス語をやっている生徒の中には転校したいと言っている子もいた。

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少人数制になってしゃべる機会は格段に増えたけれど、やっぱり議論のような授業になると、どうしても欧米の生徒たちに勝てない。この学校は社会人が多いこともあって、みんな自分なりの考えをしっかり持っているし、あらゆるテーマについてとりあえずの文法でどんどん発言する。私は普段、一番しゃべれると言われているのに、こういう場面になると形勢逆転。考えをまとめるのにも時間がかかる上に、みんなが侃々諤々と意見をたたかわせている中に入っていくことができない。結局、しゃべれるといってもそれは単に文法的に正しいということであって、本当の意味で言葉を使えているということじゃないのだ。

これもずーっと悩み続けていることだし、多くの日本人が悩んでいることでもあると思うのだけど、発言する文化の中で育ってきた人たちとはこうも違うものかと毎回痛感させられる。人の意見に反論する、それを受けてまた別の視点で意見が出てくるという、途切れることなく続くその流れを見ているだけで感心してしまうぐらい、本当にみんなアクティブ。こういうときは少人数にもかかわらず、気づいたら30分以上、自分だけ一言も発していないということになりがちで、落ち着いたところで先生に促されて初めて発言するっていう、社会人としてはなかなか情けない展開になってしまう。

寡黙を重んじる日本の文化の中で生きてきたということもあるけれど、それは言い訳で、どちらかといえば性格の問題だからさらに難しい。日本語でも4人以上になるとほとんどしゃべらないのに、それを変えろと言われてもなかなか簡単にはいかないのだ。仕事だと思うか、積極的な自分を演じるか、何か手段を考えなければ。パリカトで出会った中には大人しいアメリカ人もいて意外だったのだけど、彼らも意見表明が求められる文化の中で苦労しているんだろうか。

大人になってから語学を学ぶというのは本当に難しくて、いろいろなことを考えさせられる。例えば、定番のロールプレイングをこの学校でも以前やらされたのだけど、自分が医者や店員やホテルの従業員になってフランス語で対応することなんて100%ないのに、それをやることに意味があるんだろうかと思ってしまう。無駄ではないにしろ、必要でもない。また、ランダムに指定されたキーワードと文法を使いながらストーリーを考える授業では、ストーリーを作ることにとらわれてしまって肝心の文法が使えないということが起こったし、一番複雑だったのは、それこそフランス語での議論の仕方を勉強する授業。グレープフルーツとバナナのどちらが優れているかというのがテーマで、それぞれの特長と欠点を挙げながら結論を導いていくことは確かに方法としては合っているのだけど、そもそもこのテーマについて深く考える必要があるんだろうか。このとき同じクラスだった日本人の女性と、議論のための議論をやっても意味がないんじゃないかと話し込んでしまった。

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まあいろいろ問題はあるにせよ、やっぱり語学の勉強は少人数でなければいけないなと感じている。ただ、確かにしゃべるのは少しずつマシになってきているのかもしれないけれど、聞き取りは相変わらずで、文法も語彙力もレベルはこちらが一段高いはずなのに、みんなの方が理解できているのはなんでなんだろうか。また、一つひとつの細かい文法は分かるのに、難しい長文を読んで大意をつかむということに関しても、他の生徒の方がよくできる。この場合は特に、似ている単語を多く持つ英語圏やイタリア・スペイン語圏の人たちが圧倒的優位。きっと単語から意味を類推できるんだと思う。

これらの言語がフランス語と同じような構造をしているということも、彼らにとっては理解を助ける大きな要因。英語やフランス語を日本語にするには後ろから訳していくことが必要で、個人的にはこれに悩まされていることはないのだけど、瞬間的に理解していくのはなかなか難しい。話す場合にも、日本語で頭に浮かんだことをフランス語にするにはまず主語を何にするかということから考えなければいけないのに対して、同じ構造の言語を話す人たちは、極端に言えば単語をそのまま置き換えるだけでうまくいく場合がある。最初からアドバンテージがあるのだから、特定の分野において彼らの方が優れているのは、ある意味当たり前なのかも。何かを言いたいと思ったとき、すぐに表現が出てこないことは今の自分の大きな課題の一つだから、そこを自動的にある程度クリアできているというのは本当にうらやましい。

ところで英語といえば、この学校はそもそも欧米人が多く、それ以外の国の出身でもほぼみんな英語をしゃべれるので、休み時間になると英語で会話が始まる。はっきり言ってうっとうしい。特に今週のクラスは、私以外全員、英語を日常的に使う人たちばかりだから、みんな楽しそうに話しているのに何を言っているのか分からないし、フランス語は一番できるのになんでこんなに卑屈にならなければいけないんだろうと思ってしまう。

それから、先生が英語で説明するのにもうんざり。今の先生は、英語だけ利用するのは不公平だし、フランス語のニュアンスをそのまま翻訳することはできないといつも言っているのだけど、どうしても授業中に英語で質問してしまう人がいて、そういうときは先生も英語で答えてしまう。1週目の相性の悪い先生に至っては、みんな分かっているのにわざわざ英語やイタリア語やスペイン語に置き換えることが頻繁にあって、マルチリンガルであることを自慢したいんだろうかと思ってしまうぐらいだった。そもそも全員が英語をできるかどうか確かめもせずに安易に使いすぎだし、それなら日本語でも説明しろよと言いたくなる。この辺り、最終手段としてしか英語を使わないことを徹底していたパリカトの先生たちとはだいぶ意識が違う。まあそれにしても、もう少しアジアの生徒が増えてくれれば居心地よくなるのだけど。

 

リュクサンブール公園
パリの秋はあっという間